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諏方人と国のなりたち…

諏方人と国のなりたち…

常盤光秀

諏訪神社の祭神(さいしん)は建御名方命(タテミナカタノミコト)ですが、出雲より此処、諏訪の地に流れてきたことは皆さん周知の事であります。既に諏訪の地を統治していた洩矢族(モレヤ)は、建御名方に岡谷・天竜川の河口で敗れ恭順し祭司を執り行うだけの大祝(おおほうり)の地位で今日まで繋いできました。それ以前にはミシャクジ祭政体を基とする産土神(うぶすな)の諏訪王国が数千年も続いていたことも解っています。

6万年前にアフリカ大陸にいた人類、ホモ・サピエンスは他の大陸に生きる土地を求めて旅立ち、3万年前には日本列島に到達しました。現代の人間はそのルーツをホモ・サピエンスとしてDNAで証明されています。

諏方の国や建御名方命が出てくる記紀(古事記・日本書紀)は1300年前の記録ですが、諏方の地には凡そ2万年前より石器時代、1万3千年前から縄文時代の原人が八ヶ岳の裾野で生活をしていた痕跡が多くの遺跡として残っています。神話で語られた時代より現実に生活していた爪痕のほうが説得力を持ちます。

狩猟や生活の道具として黒曜石は有名ですが、その流通は遠く北海道まで及んでいます。定説は新しい発見で覆され、より真実に近づく過程の繰り返しです。縄文時代といっても凡そ1万年という長い時間で表現され、現在の時間軸では想像できないくらい悠久の時です。

此処、信濃の枕詞として「ミスズカル」が使われますが、諏訪湖の水辺の禾本科植物(かほんか)の根に付着している金属・渇鉄鉱(かってっこう)を集め、縄文人の竈の火力(700800度)で加工し、様々な道具として使用していました。その後、鉄が伝えられるまで難はあっても自由に曲げ、叩くことで、黒曜石より使い勝手の良い加工品ができました。その姿は諏訪大社の宝物殿の中に鉄鐸(さなぎ)として目にすることができます。鈴生りになったブドウの房に似ていて様々な行事に音が出る道具として使われてきました。

耕作や武器として手に入れた渇鉄鉱は諏方人の人口を増やすことができ、縄文中期に全国で20万人程の人口の10分の1が八ヶ岳山麓や湖沼の周辺に暮らしていました。現在の首都とも言えます。

気候は現在より温暖で争いも少なく、ミシャクジ祭政体として独立した国が営まれ、数千年は優に続いていたと想像できます。日本の屋根と形容され険しい山々の襞の谷間に一つの信仰に心を繋ぎ国として平和な生活が繰り返されていたことでしょう。

古事記や日本書紀に記録された定説を破る新説で諏方の国を積み上げるしかありません。日本の中心に位置し、古文献に時々登場する諏方を再認識することは、犬馬の齢となった私の残り少ない楽しみかと言えましょう。

 ホームページには様々な情報で満ち溢れることを願っています。


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